蔵元がこっそり教える!明日から使える簡単マメ知識。
桜の便りがきかれるころになると、なぜか心が浮き立ち、誰もが花見へと誘われます。
桜がこうも人々の心をひきつけるのはなぜでしょう。
🌸お花見
花見の起源は奈良時代の貴族の行事からと言われています。その頃鑑賞されていたのは中国から伝来したばかりの梅でした。
『日本後記』に嵯峨天皇※が宮中の庭で「花宴之節」(弘仁3年/812)を催した記録があり、それが桜の花見の最初とされています。この後は毎年のように花宴が催されるようになり、観桜の宴は天長8年(831)から宮中の定例行事となりました。桜をこよなく愛した嵯峨天皇の影響で貴族の間でも花見が広がり、桜の木の下で貴族たちは漢詩を作ったり、楽を奏したり、舞を舞ったりして楽しみました。
お花見はそもそも祓いの神事、宗教的行事が始まり。
八百万の神の中に「サ」という山、田、稲の神様がおられ、「くら」は神様が鎮まる座を意味し、サ神が鎮座したとされる木を「サクラ」と呼んで、この木にお供えものをして豊作を祈り、宴を催したことが花見の由来とされています。春になり桜が開花することは、山から田にサ神が降りてきた証だったのです。
貴族や武士だけでなく、庶民も盛んに花見を楽しむようになったのは、江戸時代の寛文年間(1661〜73)の頃からです。
一般に「花見」というと寺社の境内に咲く一本桜の鑑賞でした。寛永寺を創建した天海僧正らが植えた上野の桜が有名で、特に早咲きの彼岸桜が喜ばれたといいます。寛永寺の境内は庶民に開放されていましたが、徳川家の菩提寺ということもあって音曲や飲酒、夜桜見物は禁止されていました。
享保年間(1716〜36)に八代将軍吉宗が、飛鳥山や隅田川堤、小金井堤などに数千本の桜を植えて庶民の花見を奨励したことから、一斉に咲く盛大な桜を鑑賞できるようになり、花見は庶民の楽しみとなりました。人々は桜が咲き始めると連れだって花見に繰り出し、樹下に宴を設けて楽しみました。
🌸花見弁当
お花見は、お金持ちにとっても貧乏人にとっても、待ちに待った春の楽しみでした。
大店の裕福な商人たちは、漆塗りに金箔をほどこした絢爛豪華なお弁当箱や、日本酒も持ち運べる構造の段重ねの重箱に料理店が趣向を凝らした料理を詰めグルメを満喫。自慢の小袖などをこれ見よがしに幔幕(まんまく)にかけたりして、その豪勢な宴を楽しみました。
もちろん庶民もそれなりに精一杯のご馳走を作り、着飾って出かけたことでしょう。
長屋の住民たちの花見の様子を落語にした「長屋の花見」が有名です。
『長屋の花見』
落語。もともとは上方落語の《貧乏花見》。明治30年代に東京に移入された。
貧乏長屋の連中が家主に呼びだされ,店賃(たなちん)の催促ではないかとおそるおそる行ってみると,みなで花見に行こうと言う。家主が用意した酒の代りの番茶,玉子焼の代りのたくあんなどを持って花見に出かけたが,番茶では酔えない。茶を飲みすぎて気分が悪くなった男が,どんな気持だと聞かれ,〈井戸に落ちた時と同じような気持だ〉。東京はここが落ちだが,上方落語は,なれ合い喧嘩でまわりの花見客を退けた長屋の連中が,残った酒肴(しゆこう)で酒宴を開く。それを見た幇間(たいこもち)が文句を言うと長屋の連中がおどかす。〈てめえ何しに来た〉〈お銚子(ちようし)のおかわりを持って来ました〉。
改訂新版 世界大百科事典 参照
今も昔も、春になれば咲き始めた桜の木の下に酒や弁当、菓子を持って人々は集います。お花見には酒と肴がつきものですね。
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